プロローグ

生きていれば日々、いろいろなことがありますね。 大切な人との別れも、長く生きていれば次第に増えてゆくのでしょう。

2010年11月22日、10年間深くお付き合いをさせていただいたピアニスト 深町 純が大動脈解離による心嚢血腫により他界しました。

歯に衣着せぬストレートな物言いで時には厳しく真実を突いてくれる深町さんは、僕にとっては年の離れた兄のような存在でとても話しやすく、これまで多くの局面で助言をもらい励まされて来ました。あれ程正直でウソがない人を僕は知りません。

2010年12月29日に行った博品館劇場公演では、深町さんが残してくれた音と最後の演奏をしました。まるでそこでピアノを弾いているとしか思えないような強いタッチで、信じられない程自然に3人がひとつになり、The WILLを終えることが出来ました。

ここでは、出会いから10年間の歳月を振り返り、僕が感じた「深町 純」という孤高のアーティストを偲びたいと思います。

出会い ━1999年━

  「堀越君」 しゃがれた声が僕を呼ぶ。

  「君、なかなか良いねぇ」と続く。
  「ありがとうございます」と僕。

  「えっ、僕のこと知らない ? 深町だけど、深町純です」
  「あーはい、良く知っています、はじめまして、堀越です」

1999年、深町さんとの出会いは西麻布のクラブ「アムリタ」で、元フラワートラベリンバンドのギタリスト石間秀機さん、キーボード篠原信彦さん、元ピンククラウドのベーシスト ルイズルイス加部さんとのセッション、ピタゴラスパーティーに参加していた夜のことだった。

椅子に深々と腰掛けくわえ煙草にワインのグラスを持つ深町さんは最初のステージが終わった僕に声をかけてくれた。

  「なかなか面白いねぇ」 と深町さん
  「堀越君のドラムは日本のドラムだね」
  「僕も日本の音楽をやりたいと思っているんだよ」
  「何か一緒に出来ると良いね」
  「いつでも電話ちょうだいよ」

そう畳み掛け連絡先を教えてくれた。

当時まだ自分のグループを持っていなかった僕はすぐに共演する機会を作ることは出来なかった。 ただ僕にとっては珍しく「実に話しやすい先輩」という印象で、その後何度か電話で音楽の話しをした。 深町さんと出会ったのはプロになってから10年、24歳のオーディション以降たくさんの共演をさせていただいたピアニスト山下洋輔さんが10年続けたレギュラーユニットを解散した、僕にとって節目の年でもあった。