人は誰でも、自分の中にすべての答えを持っていると思う。

例えば人を好きになる。
  その「好きになる」という感情は、すでにその人の深層心理の中に存在していて、
   好きになった相手はその心の扉を開いたにすぎない。
素晴しく感動した映画があったとする。
  人はそのシーン、セリフ、風景、感情表現に対して心を動かされ、共感し、
   しばらくの間その主人公の思いを想像したり、涙したりする。
    しかしそれはその作品によって心のボタンを押されたにすぎない。

人は「記憶」とともに生きている。
意識するかしないかは別として、人は心の中に膨大な「記憶」という資料を眠らせている。
そしてそのほとんどは使わずに一生を終えるのであろう。

「SOLO-ist」というパフォーマンスを思いついたとき、
「記憶を呼び覚ます」ことをテーマにしようと決めた。
なぜならそれは人間特有の感情であり、打楽器が持つ最も不可思議な魔力であるからだ。


  窓から差し込む眩しい陽射し、真夏の夜の月と影、
  野原を駆け回る子供の声、草の匂い、
  出会いや別れの思い出、誰もが持っている記憶、


たとえ経験がなかったとしても、まるで自分がしてきたように思い描ける風景や感情、
それをも含めて「記憶を呼び覚ます」。それは「想像」とも言えるかもしれない。
一人の武士が運命を覚悟し、研かれた剣とともに敵と立ち向かうときの思い、
こんなものは想像でしかあり得ない。がしかし、
その思いをリアルに自分のものとして想像できる場合、それは記憶かもしれないと僕は思う。

はかり知れない人の可能性は自らの中に眠っている。そんなふうに考えたとき、
人は誰しも一つの完成された「個」であり、偉大なる「SOLO-ist」であると思った。
そして「自分とは何だろう」という疑問と直面したとき、
記憶をたどりその答えを探すために、自分を見つめるのだと思う。



このパフォーマンスを単なる演奏会でなく、「時空間の演出」と考えている。
ドラムやパーカッションを一種の演出装置(インスタレーション)として、
また演奏(プレイアクション)を必然性の上でのボディパフォーマンスとしてとらえ、
独創的な動く彫刻群を光と影の音符を刻む伴奏楽器としてみなすことによって、
日常の時間軸とは遥かにかけ離れた時空間を演出することができると考えている。

 鳥の羽を有した動くオブジェは、
    オーケストラを操る指揮者のように優雅な動きで空間を奏でる。
  2枚のガラスが滑るように重なり合うオブジェは、
     湖面に広がる波紋をイメージさせる。
   鏡の葉を付けた3基のオブジェは、
      風に揺れる木の葉のように動き、照明効果によって光の雨を降らせる。

そして堀越彰は空間を切り裂くように舞い、躍動する。
その無駄のない動きが音の中で自由に流れ、美しい。
「感性」を頼りにその瞬間に反応し、音楽を超越していく。


ごく一般的な認識としてのドラム演奏は得てしてメインな存在としてではないことが通念であろう。
ある意味でドラム奏者一人でのコンサートというのは 非常に困難で
常識外であるとも思われるかもしれない。 しかしその既成概念は、
堀越彰のように非常に表現力のあるプレイと、 さまざまな時空間の演出を用いて
ほんの僅かに観客の意識を従来の観点から別の次元に誘導することによって、
実はドラマチックに展開しうるのだと改められるべきであろう。

堀越彰は叩くことを通して、東洋人の美意識を表現しようとしている。
能楽の荘厳な響きと間、ガムランの鮮麗なる色彩感、
インド古典音楽の幾多にも絡み合うリズムの綾。
アジア人としての誇りは「SOLO-ist」のもう1つのテーマである。

ジャンルや国・文化の違いなどにとらわれることなく、
このプランに共鳴し得るすべての表現者とのコラボレーションを交えながら、
新しい時代性と普遍性の両方にベクトルを持った活動展開を趣旨とする。


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