「The WILL」のライブも1週間を切りました。今回は「特集2」として、 ピアノ&キーボードの深町 純さんとの対談を中心にお送りいたします。どうぞお楽しみください。 堀越 彰 |
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◆ いよいよリハーサルです。3人の持ち寄った楽曲、アイデアをぶつけ合う苦しくも楽しい時間です。休憩時にオーストラリアからの帰国間もない深町さんの土産話に花が咲き、世界地図を広げてそれぞれの外国談義。剛君はフラメンコのパコ・デルシア好きが高じて1ヶ月のスペイン旅行をしたそうです。 僕は秋にヨーロッパ・ジャズフェスツアー、「The WILL」でも近いうちに必ず、と心に誓う3人でした。 |
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◆ 3つの特徴的なシーンで構成される深町さんの曲、5拍子でメロディ−が美しく優しい剛君の曲、そして、祈りをテーマにしたドラムソロから続く哀愁漂うメロディの堀越の曲。今回3人が書き下ろした新曲をお聞きいただきたいと思っています。 |
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◆ 4年という歳月をひも解くように、3人それぞれがかつての楽譜を持ち寄り、ピアソラ「タンゴ・バレエ」のリハーサルを終えました。いやぁ、覚えてるもんですね。体が覚えている。それだけやったということです。この曲は1956年、パリからブエノスアイレスに戻ったピアソラが、モダン・バレエの振付師アナ・イテルマンの依頼を受けて書き下ろされた作品です。6つの小曲で構成されていて、僕たちはさらに「天使の死」という、やはりピアソラの曲を加えて7曲、約20分の組曲でお送りしたいと思います。 |
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◆ 飛翔の象徴であり、今という時代をとび抜ける羽根を持つ 渡辺 剛 知恵の象徴であり、古きに学び真理を知り、悟る 深町 純 エネルギーの象徴であり、迷いなく突き進む力、覚悟、意思を持つ 堀越 彰 そんなそれぞれのイメージキャラクターをもとに、オブジェアーティストの田中さんと選んだ3点の動くオブジェを 持ち込みます。 |
「堀越 彰 The WILL」 |
堀越 考えてみると、今まで深町さんには、僕のやるものすべてに参加してもらっているんですよね。「SOLO-ist」「東方異聞」そして「The
WILL」。それに加えて僕のパフォーマンスをたくさん見ていただいている。能楽師をゲストに呼んだ「「東方異聞」with舞」なんか感想文の手紙までもらったんですよね。もちろん僕も深町さんのライブやコンサートに随分行きました。アートスフィアでは能楽師とのコラボレーシャンをやっていましたよね。深町さんと話したときに、「僕は日本の音楽をやりたいんですよ」と言ったら、深町さんも、僕もそうだよとおっしゃっていましたよね。でも、少し方法論が違った。僕は、「東方異聞」で薩摩琵琶や笛、能管など邦楽器を使って日本の伝統音楽をモチーフに音をつくった。深町さんは、そうじゃないんだ、邦楽器は使わないんだとおっしゃった。僕はその違いは誤差の範囲だと思っているんですよ。それよりも「日本の音楽」と言ってはばからない人がここにもいたんだ、とうれしくなりました。「The
WILL」では、邦楽器じゃなく、日本の楽曲でもない、でも紛れもない日本の音楽、僕たちの音楽、そういうものをつくれたら思っているんです。「東方異聞」はもちろん「SOLO-ist」も観念というかストーリーは日本のことを語っている。 今まで、そんな2つのユニットに参加してみて、僕と深町さんが言う「日本」というものの共通点と、相違点についてどのように思われますか。 |
深町 僕、この間オーストラリアに行ったとき、これはあるバイオリニストのレコーディングの伴奏、CDをつくるということで行ったんだけれども、行くときの条件として、オーストラリア・シドニーでもライブを一つ組んでください、組んでくれるなら行ってもいいですと、実は二度目だったんですけれども、オーストラリアでやってきました。 |
そこでも僕はここと同じように、まさに君が言ったように、僕は日本の音楽をやりたいと言ってやっていて、堀越君が日本の音楽をやりたいというのと僕が日本の音楽をやりたいというのは、どこまで同じでどこが違うか、わからないけれども、一つは、それぞれの国にそれぞれの固有の音楽というのが世界じゅう民族音楽というのがあって、僕の知っているところによると、地球上には民族というのは八十ぐらいあるらしい。それぞれ、つまり八十種類の音楽があるわけね。
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堀越 それはすごくよくわかります。サッカーでも野球でも世界共通の競技なわけで、特別なものじゃないですからね。そこに日本人が行って、例えば僕がイチロー選手がすばらしいと思うのは、成績もさることながら、彼のスタイルが極めて日本的だということを僕は感じるんですね。彼の発想、スタイル、体の使い方、彼の目指しているところも、意識しているかどうか、当然意識しているとは思いますけれども、とても日本的な、日本人が持っている能力を最大限引き出すスタイルなんじゃないかと。サッカー中田しかり。 |
深町 「東方異聞」も僕は参加させてもらって、あのときも思ったんだけれども、音楽というのは、今度は場、どういう場所で演奏するかというのが民族音楽ではとても重要だと思うんです。「東方異聞」をやったときにも思ったんだけれども、堀越君が「東方異聞」で目指している日本の伝統的な楽器を使って演奏するというスタイルは、僕は悪いとは言わないけれども、とても難しいなと思うことの一つは、やはりライブハウスという形態、つまりライブハウスというのはどういう形態かというと、PAがあって、そこで酒を飲みながら聞く、演奏するという形態と、日本の和楽器が本当にマッチしているんだろうか。和楽器というのは、基本的に野外で昼に演奏する。つまりどういうことかというと、西洋の楽器と和楽器、民族楽器の大きな違いは、西洋のいわゆるクラシックで使っている楽器は、インドアな楽器なんだよね。つまり、ホールで演奏する。 堀越 ホールの響きも含めて。 深町 残響があるところで演奏する楽器だと僕は思っている。それに引きかえ、あらゆる世界の民族音楽の主流は、野外で演奏するための楽器であって、例えば音を止める装置がついていない。それは、日本のお琴でもそう。つまり、音を止める必要がなかったり、あるいはちょっとひずんだ音になったりした方が、野外の騒音の中ではよく聞こえる。そういう違いを持っている特性がインドアでやると生かされないんじゃないかという疑問を持っている。 |
堀越 これは僕にとっての課題でもあり、特異性でもあり、苦しみでもあるんですが、僕は、深町さんと違って、ドラマーなんですよね。ドラマーでありながら、自分の音楽をつくり、舞台の中央にいて、自分の表現、空間演出、そういうものを含めて見せたいというのがある。「SOLO-ist」に関しては、それがホールという場所で完結する種類のパフォーマンスだったと思っています。おっしゃるように、「東方異聞」に関しては、ライブハウスで完結すると思っていないんですね。この九月に大宮八幡宮の森のような境内で「東方異聞」の野外コンサートがあるんです。確かに、ライブハウスよりもその環境でストーリーを考えた方がはるかにスムーズなんです。それはそのとおりなんですね。 |
深町 大切なことは、多分、聴衆である現代日本人がどういう生活をしているかというと、もう明治前の日本人のような生き方をしていないと僕は思うのね。みんな洋服を着て、ジーンズをはいて、朝起きたらコーヒーを飲んで、トーストを食べてという生活をしている日本人というのは、もはやかつての日本人とは違う。衣食住は欧米化されている。それでも日本人という人たちが生きていられるように、楽器が別に西洋の楽器だろうと、厳然と違う演奏をすることは可能ではないかと僕は思っている。 堀越 それは僕も思っている。ただ、それでもなおかつあえて日本の楽器を現代に鳴らしてみたいというこだわりもあるんですよ。これは、聴衆がというよりも、僕が聞いてみたい、僕が体感したい。琵琶のあの間というのは何なんだという興味があるんですよ。やけに心地いいとか、何かわかるとか。好き嫌いじゃなくて教えられたわけでもないのにできてしまうことって、誰にでもあると思うんですよ。持って生まれたとしか思えないもの。僕はあらゆるものの影響から、そんな内在する自分自身を探り当てたいと思っているんです。自分が何者なのかを知りたい。「東方異聞」は僕の興味なんです。日本の音楽の中で僕がどうふるまえるかというのが最大のテーマなんですよ。時にはそこに舞が入ったり、深町さんが入ったり、民謡歌手の伊藤多喜雄さんが入ったりする。それによって、新たなトライが生まれて、完結はしないんだけれども、新しい側面が見えてくる、そういうユニットであると思っているんですよ。 |
深町 それは僕自身の問題でもあるし、多分ホリにも同じ問題だと思うんだけれども、僕はずっと長い間、日本の音楽、日本の音楽って主張して音楽をやってきたんだけれども、ここ数年、僕のファンの中でアメリカ人の人がいて、彼は僕に、なぜそんなに日本の音楽とこだわるんだ、つまり君がやっている音楽は深町純の音楽なんだ、それは日本人の音楽だろうと何人(なにじん)の音楽だろうと余り関係ないだろうと言われて、それは確かにそうだなと思うところもある。だから、ひょっとしたら、日本人の音楽というよりは、僕の音楽、あるいはホリでいえば、堀越の音楽をやるというのが大切なのであって、それが結果として日本の音楽になるみたいなことの方がひょっとしたらいい表現なのかもしれないと最近はちょっと思っている。 堀越 究極はやはりそうだと思うんですよ。深町さんのピアノは深町さんの音だし、極めて個人的な美学の中で深町さんは発言され、音楽をされているんですよね。それが僕にはすごく日本人らしく感じる。さっきイチローの話をしたけれども、日本人をイメージしてプレーしているわけじゃなく、彼の一番最良の方法でやっている、それが僕には日本人の感性を感じる。 |
深町 うまく言えないけれども、例えば今僕たちが言っているクラシック音楽と民族音楽とどこが違うのか、何が根本的に違うだろうかというと、民族音楽というのはあらゆる民族が固有に持っている音楽で、それを演奏している人たちがそれ以外の民族にその演奏を聞いてほしいとも思っていないし、あるいは、嫌な表現だけれども、売れたいと全然思っていないわけ。つまり、それはあらゆる民族固有の行事の中で使われ、その固有の民族の人たちに親しまれ、その人たちの日常生活の中にあって、さまざまな役目を果たしている音楽。片やクラシック音楽というのは、多分ヨーロッパに啓蒙思想が出てきたときとときを同じくして出てきた音楽で、それはちょうど物理学なんかが発達したころと本当に時期が同じ。つまりどういうことかというと、普遍的ということを思ったのね。 |
多分僕がクラシックにいた影響はそういうところにあって、非常にクラシック的な、さっきたまたま君がピアソラの話をしたけれども、僕のピアソラについて知っていることの一つといえば、あれはアルゼンチンではだれも全然認めていない、でもピアソラという人は、多分ニューヨークでアルゼンチンの音楽、あたかも民族音楽のようにああいう音楽をつくったことで、アルゼンチンの固有の音楽はそれ以外の人は誰も聞かないけれども、ピアソラの音楽は世界じゅうの人が聞いたみたいなこと。あるいは、それに似た現象はボサノバもそうだと思うのね。ボサノバという音楽は、決してある地域固有の音楽なのではなくて、フランスのぼんぼんが、多分それはニューヨークやいろいろなところに行ったハイソサエティーな人たちがその民族風なテイストで違う音楽をやり出したことが世界じゅうに受け入れられるというような現象。そういうことがあって、その民族固有のところから脱したいという欲望を持つ音楽家がいても僕はそれはいいと思うし、おもしろいと思うし、僕も多分そういう考え。だから、別の言い方で言うと、グローバリズムとローカリズムという問題。 たまたま僕は、オーストラリアにいて、一時間の音楽番組を見たの。それは、オーストラリア人の尺八を吹く人のドキュメンタリーだったの。 |
彼は尺八を吹いて、それからパーカッショニストとディジュリデューというアボリジニの楽器をトリオでやるという演奏スタイルをずっと長いことやっていて、彼は鬼太鼓座(ONDEKOZA)に長いこといた人らしいんだよね。だから、彼はそういう演奏のスタイルで、オーストラリア人のくせに尺八を吹いているわけだ。僕はそれを見ているときに、そうか、でも尺八を聞くならやはり日本人の演奏を聞きたいなと、どうしても疑いもなくそう思うんだよね。
堀越 そうですよね。ピアソラはバンドネオン奏者なんですよね。 深町 彼が優れていたことは、多くの曲を書いたことだよね。 堀越 作曲能力ですよね。つまり、彼がリーダーでピアソラ音楽をつくった。作曲家でありながら、バンドネオン奏者で、彼は決してピアニストじゃないわけですよね。ましてやパーカッショニストでもない。バンドネオン奏者、ここが決定的に違う。僕が今やろうとしてることを、僕が琵琶奏者だったらもっと話は簡単なんですよ。あるいは尺八奏者だったら。でも、僕はドラマーだから、ピアソラにはなれないですよね。 |
深町 そこは、ごめん、僕はそう簡単には同意できないんだよ。例えば、さっき君がたまたまイチロー君の話をして、イチロー君や野茂君、松井君、そういう人たちがアメリカで活躍することが本当にいいことかどうか、僕はちょっと疑問に思っているんだよ。 堀越 そうなんですか。 深町 ちょうど今、日本の大相撲で朝青龍というモンゴルの人が活躍していることが本当によいことかと。つまり、これはとても極端な言い方だけれども、それが押し詰まると、地球上が一つの文化になってしまうおそれを僕は抱いているのね。 堀越 違う土俵で自分を表現する。 深町 だから、僕は同じ楽器を使いながら、違う民俗の音楽をやりたい、つまり、ヨーロッパあるいはアメリカの人たちとは違う演奏をしたいと目指しているので、それは、一緒になっていいと思っているわけでは多分ないだろうなということを今回のオーストラリア人の尺八を吹くのを聞きながら、つくづくそう思ったんだよね。 堀越 それは、ひとえにピアソラという人の作曲能力、アレンジ能力なんじゃないかと僕は思うんですけれども。 深町 それはやはり音楽的に優れているんだろうね。 |
堀越 少し話を戻しますが、世界の土俵で戦うということ、グローバリズムということに関して、確かに相撲を見ると危うい感じがしますね。サッカーでも世界のトップとはまだ互角に戦えない。でも人は挑戦する過程に熱狂したりするわけですよ。野球にしても、サッカーにしても、世界一を目指すんだ、世界最高の舞台にチャレンジするんだという彼らの志、「だめかもしれない、でも行くんだ」という一人の人間の志があらゆる価値観を変えていると僕は思うんです。それはここ十年ぐらいの間のことかもしれないけれども、これは、僕も含めて今の人にすごい影響を与えているんじゃないか。つまり、日本で駆け上がっていっただけがすべてじゃないと思う、そのハングリー精神、世界を目指す志というものに敬意を表する、そういうことが好きなんですね。例えば、「東方異聞」や「The WILL」でも、ヨーロッパのジャズフェスに出られたらどんな反応なんだろう、そういうことにすごく興味があって、やはり日本でやるのと同時に、海外でやりたいと思っているんです。「SOLO-ist」にしてももちろん日本でつくっていくんですけれども、同時に海外に行っても通用するものというか、何々の真似じゃないかと言われておしまいにならないもの、独自の表現方法を持っているということに強いこだわりを持っている。 |
深町 それは認めるよ。多分ホリの方法がつき詰まると、次に抱えなきゃいけない問題は、きょうたまたまテレビを見たんだけれども、貴乃花部屋の信条は、外国人力士を入れないという方針なんだって。つまり、今大相撲が抱えている問題は、外人力士の横綱ばかりだとファンが離れちゃうところなんだよ。つまりさっき言ったオープンということと関係しているんだけれども、多分、相撲協会がある時期に外人力士を許したときがあったのね。それによって曙とかが出てきた。そのときは甘く見ていて大丈夫、その方がおもしろうだろうと思ったんだけれども、実は圧倒的な体力を持つ外人力士が入ってきて。 堀越 あのころは、日本人のヒーローがいて、彼らは悪役で始まったんですよね。 深町 ところが、今はそうじゃなくなってきちゃったわけよ。現実に起こったことはどうかというと、ファンが離れちゃったということで、すごく危機感を持っているわけね。それでも多分、僕の知る限りでは、ヨーロッパの相撲取りがいないのは、あの人たちは裸体を人前で見せるのが嫌なんだと思う。ふんどしになるのが嫌なんだよ。だから、たまたまいないだけで、そうすると、どういうことが次の段階に一つの可能性として出てくるかというと、レスリングのようなああいう格好をしてなら西洋人もやるかもしれない。例えば全裸、つまりふんどしでやることを誰かがやめたとしたら、それでも相撲という競技と言えるだろうかという問題をはらんでくるわけね。ここにグローバリズムとローカライズのせめぎ合いが起こってくるわけ。相撲に関しては、僕は余り関心がないから興味深く見守っているけれども、僕は基本的にローカライズということを大切にしたいと思っている。 |
堀越 僕も基本的にはそうですね。
深町 その方がむしろ、スポーツじゃないから、何も外人のミュージシャンと一緒に演奏しちゃいけない、外人と同じスタイルをとらなきゃいけないわけじゃないから、もちろん僕だって一緒に演奏するミュージシャンが外国人でもひょっとしたらかまわないんだけれども、でもかつてニューヨークでニューヨークのミュージシャンと随分一緒に演奏した経験で、僕はあるときからやはり日本人のミュージシャンと一緒に演奏したいなと思ったことがあったのね。それは、どんなに西洋のアメリカ人のミュージシャンが音楽的に優れていても、そっちに染まっていくと、僕は結局アメリカの音楽をやることになるような気がする部分があるのね。 堀越 なるほどね。 深町 だから、あるときからやはり日本人の音楽で、日本人のミュージシャンと一緒に西洋人に受け入れられるような音楽をやりたいというのが僕のやりたいことで、なおかつ、使う楽器も演奏スタイルも、ひょっとしたら西洋の語法、音楽の言葉はヨーロッパ系の語り口かもしれないけれども、内容はあくまでも一歩も譲れぬ日本のもので西洋の人たちに理解されるような音楽をやりたいなというのが、口で言うところの僕のやりたいことかな。 堀越 なるほどね。相撲に関しては、外人力士一人入れた段階で、横綱全員が外人になる覚悟がなきゃするべきじゃなかったんですよ。甘く見ていたんだろうけれども、もはや制限するすべは何もなく・・・。 深町 例えば、曙とか、ああいうハワイの人たちは、足長で割と弱かったわけですね。ころころといった。ところが、今は、アジアの強力な人たちが来たら、圧倒的に強力なんだよね。 堀越 だから、僕は、一度、幕内上位がほとんど外人の時代が来ていいんじゃないかと思う。だって、弱い日本人横綱よりも、強いモンゴル人横綱の方が・・・。 |
深町 もう一つ大相撲が抱えている問題は、女性蔑視のあの姿勢が果たして現代社会にどこまで受け入れられるだろうかという問題も抱えているんだ。 堀越 ローカリズムと矛盾する部分がいっぱいありますよね。女性蔑視はわかりませんけれども。
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深町 大坂の女性知事が土俵に上がれなかったんだよ。賞状を渡したいと言ったら、断ったんだよ。なぜなら、土俵の上は女の人は上がっちゃいけないらしいわけ。そういうことが資本主義というか平等主義の中で難しいと思う。 |
深町 いや、だからそこは難しいだろうね。例えば全員が外人の横綱になって、その横綱全員が、もうちょんまげやめようよと言い出したらどうするんだろうということだよね。どこかの段階でその人たちを排除して、結局日本人だけのスポーツにして戻るか、やめて、レスリングのようなスタイルにして、素の頭のままでやる競技にするのか、その選択を、実は柔道という競技もどこかの段階で体重別にすることで、おそらくあれで失ったものが随分ある。柔よく剛を制す、小さい者が大きい人を倒すといった伝統はもうあそこで失ってしまったんだよね。 堀越 相撲には残っていますよね。だから、それは昔の外人大型力士を日本の小型力士が倒すのと時代は変わってしまいましたけれども、ふんどし、ちょんまげはきっと残るんだと思いますよ。上位幕内以下全員外人力士という時代は来るかもしれないですよね。それでも今のいわゆるローカリズムを守るべきだと僕は思いますよ。金髪のちょんまげとか嫌ですけれどね。 |
深町さんのホームグランドでもある恵比須のアートカフェで行われた対談は、予定を大幅にオーバーし、膨大な会話の量に編集者も青ざめておりましたが、そこはさすが深町さん。得意の危険な発言連発でほどよい量におさまりました。いや、それでも多いか!? 残念ながら、お読みいただけない会話に関しては個人的にお聞きいただくとして……。 何はともあれ、6/29、南青山マンダラでお待ちしています。 堀越 彰 |
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